卒業式の練習なんていらないとおもうんだ。
三月は私の誕生日・・・もとい卒業の月ですねー!

この季節になると、おもいだす甘酸っぱい小学生、中学生の卒業式の思い出です。(高校の時はほぼ男子校でぜんぜん甘酸っぱくもなかったorz)

が、今にして思うのだ。 卒業式の唄の練習なんて不要なものだと・・・・!

今にして思う。なぜ卒業式の練習なんてものが存在したのだろうか?

正直、卒業式なんて在校生だった時、大嫌いで仕方ありませんでした。

なぜなら卒業式の練習があったからです。

3月の糞寒い中、わざわざイスを体育館に運んで、きれいに並べて、窮屈なイスの座り型を命じられ、私語は厳禁され、先生に怒られて、どこの馬の骨かもわからない卒業生の卒業を祝うことを強制されることに、めちゃくちゃ苦痛を感じてましたねー。(この思いを文章にすると、なんてギスギスするんだ・・・w)

一番疑問に感じていたことは、祝うことを強制されること!

はっきりいって、知らない顔が圧倒的に多いわけです。別に恩を受けたわけでもなく、宿題を写させてもらうことも不可能な存在をなぜ、強制的に祝わなければならないのか。

そして、なぜ卒業式の歌が下手だと音楽の先生に怒られなければならないのか?

音楽の先生とは?

「音楽の先生」という言葉があります。これを砕いて読むと、こうなるわけです。

「音を楽しむことを先に生きた人」

そうです! 音を楽しむことを先に生きたおっさん、おばはんなわけです。

決して糞寒い中、祝うことを強制し、さらに「そんなことでは、卒業生が卒業できないじゃない!」なんていう存在ではないわけです。

祝うことを強制された音楽なんて歌っても楽しいわけがない。

これが卒業式の練習の原因?なぜか糞長いスピーチをもってくる、市議会議員。

そして困るのが、卒業式本番にわざわざ糞長い意味不明なスピーチをもって現れるどこの馬の骨かもわからない市議会議員たちです。

なぜあんな人たちがわざわざスピーチに現れるのか? 子供のころは、「わざわざ考えてきて、物好きだなー」と聴いてましたが、実は、選挙のため、保護者、先生に対する宣伝だったのではないかと思うんですよねー。

っていうか、あの時間は、絶対市議会議員らの時間ではないはず!

学校の先生だったり、用務員のおっさんのスピーチを聴く時間のはずです。 しかし、なぜかまったく話す必要のない、聴く必要のない訳のわからないおっさんがいつの間にか話をしている・・・。

そして卒業式の練習というやつも、この市議会議員を初めとする、無用なおっさんらに対する世間体のためにしているのではないかとすら思えてくるのです。

祝うことを強制してはいけない。

いろいろ文句いいまくっていますが、卒業式を不要といっているわけではないのです。 祝うことを練習させること、それを強制させることが、不自然だと思うわけです。

そりゃ、卒業生に恩義を感じている、在校生もいるでしょう。 だったら、希望する人間だけ参加できるシステムにしたらいいと思うわけです。祝うことを面倒くさがる人間をわざわざ列席させることは、ないと思うわけですよ。 ましてや祝うこと練習させるなんて意味が不明です。

祝うことを強制されたら、「祝う」とはいえなくなるんじゃないでしょうか? 本当に卒業をうれしく思える人たちで、心の底から祝福してあげたほうが卒業式の感動の密度はあがるんじゃないかと思いますねー。

だいたいなぜ卒業証書をもらうときに、校長にする礼も練習しないといけないのか。 個人的に恩のバロメーターは違うわけです。 そこを強制したら偽りの式になってしまうんじゃないかと思うんですけどねー。

でも、あれだけ練習がうっとうしかった「旅立ちの日に」を聴くと、未だにめちゃくちゃジーンとくるんですけどね(´-`).。oO(・・・・・・・・・)

旅立ちの日にの歌詞